【連載】教えて吉田さん!人事キーワードの理想と現実|第3回:リスキリングを推進するほど、優秀な人は去ってしまうのか?人事が抱く「皮肉な不安」の正体

「社員の価値を高めるために、リスキリングを推進しよう」

そう意気込んで施策を練れば練るほど、人事の頭をよぎる一つの「不安」があります。それは、「市場価値が高まった社員は、今の会社よりもっと条件の良い場所へ去ってしまうのではないか?」という皮肉な懸念です。

会社がコストをかけて教育し、社員が新しいスキルを身につけた結果、他社への「転職チケット」を手渡しただけになってしまう。

これでは、会社として何のために投資をしているのか分からなくなります。

そんな矛盾を抱えたまま、人事はどうリスキリングと向き合うべきなのでしょうか。

Interviewee

吉田 洋介

人事図書館 館長
株式会社Trustyyle 代表取締役
株式会社シーベース 執行役員CHRO
上海晶之道企业管理咨询有限公司 総経理
壺中人事塾 ファシリテーター
(人材マネジメント入門等著者坪谷氏と立上)

立命館大学院政策科学研究科修了後、2007年リクルートマネジメントソリューションズに入社。
海外事業立上、九州支社長、スクール事業責任者などを歴任。2021年3月株式会社Trustyyleを設立し大手~スタートアップまでの組織人事を支援。2024年4月東京人形町に人事図書館を設立。著書『「人事のプロ」はこう動く』(日本実業出版社)

人材への投資が「流出」を招くリスク
——リスキリング推進に潜む、人事の本音と板挟み

中津: 吉田さん、リスキリングは人事にとって間違いなく推進すべき重要なテーマだと感じています。しかし、現実問題として「学んだ結果、外の世界が魅力的に見えて、他社に行きたいと思ってしまう」という可能性は否定できません。

「せっかく育てたのに、外へ逃げてしまうくらいなら」と、無意識にブレーキをかけてしまっている人事の方もいるのではないでしょうか。

「社員をより良くしたい」という願いと、「辞めてほしくない」という本音。

この板挟みの状態で、人事はリスキリングをどう定義し、組織の成長につなげていけばいいのでしょうか。「人事のプロ」としての吉田さんの視点を伺いたいです。

それは「学ばせる施策」ではなく、「変化する仕事に人をつなぎ直す営み」

なぜ「学ばせるほど辞める」という不安が生まれるのか

リスキリングも近年非常に広く使われるようになった言葉の1つですね。DXや事業変革とセットで語られることが多く、人材育成において重要なテーマとして扱われています。

一方で、中津さんが懸念されている通り、「学ばせるほど社員の市場価値が高まり、優秀な人ほど外に出ていってしまうのではないか」という、ある種皮肉な不安を伴いやすい概念にもなりうるでしょう。

会社がお金と時間をかけて学びの機会を提供した結果、本人が「今の会社の外でも通用する」と実感することは当然起こりえます。ただ、その不安が強くなりすぎると、リスキリングを「やるべきだが、本音ではあまり進めたくない施策」になってしまいます。すると、施策は本人任せのeラーニングや一過性の研修に留まりやすく、学びはあるが仕事は変わらない、という状態が生まれやすくなります。

リスキリングの本来的な意味とは

ここで改めて、リスキリングの本来の意味を辿ってみましょう。人事文脈でのリスキリングは、単なる自己啓発や教養としての学び直しではなく、技術や事業構造の変化によって仕事の中身が変わる中で、今いる人が新しい役割に移行し、価値を発揮し直すための学びを指すものです。

つまり、中心にあるのは「何を学ばせるか」だけではなく、「これから自社の仕事はどう変わるのか」「どの役割が増え、どの役割が減り、誰に何を担ってほしいのか」という問いです。言い換えれば、リスキリングは教育施策である前に、事業と仕事の再設計の話でもあります。ここが曖昧なまま学習機会だけを増やしても、本来の意味でのリスキリングにはなりにくいでしょう。学びの入口だけが整い、出口がないからです。

優秀な人が去るのは、学んだからではなく「社内で使えないから」

実際に起こっている事例で考えてみましょう。会社が費用を出し、社員にデータ分析やAI活用を学んでもらいました。ところが、職場に戻るとセキュリティの整備がされておらずAIは制約のある機能のみ、さらにはデータを使って意思決定する場も、新しい役割も用意されていませんでした。このとき、その社員は「せっかく身につけた力を、ここでは使えない」と感じます。

この場合、問題は学ばせたことではなく、学んだ力を社内で活かす場を用意していないことにあります。少し極端に言えば、新しい道具を渡したのに、それを使う現場をつくっていない状態です。その場合、より使える場所を外に求めるのは、ある意味自然な流れとも言えます。

ですから、「優秀な人はリスキリングをすると辞める」と捉えるよりも、「学びの出口が社内にない会社から、優秀な人が去りやすくなる」と捉えた方が実態に近いのではないでしょうか。

人事がリスキリングに求めるものと、望ましい付き合い方

このような表面的なやりとりになるとリスキリングは本来の意味を失います。人事がリスキリングに求めているのは「変化に強い組織にしたい」「採用だけに頼らず、今いる人に活躍し続けてもらいたい」「事業の未来と社員の未来をつなぎたい」といった願いではないかということです。
一方で、その裏側には「投資したのに辞められたら困る」「経営に成果をどう説明するか」という現実的な責任もあります。

もちろん、どれだけ丁寧に設計しても、学んだ結果として社外に挑戦する人は一定数出るでしょう。それ自体を完全に防ぐことはできません。ただ、それを恐れて学びを細らせる方が、長い目で見ると組織の競争力を損なう可能性が高いように思います。大切なのは、受講率や修了率だけではなく、「学んだ人が社内でどのような役割変化をしたか」「新しい価値創出にどうつながったか」を見ていくことではないでしょうか。少なくとも皆が学ばなければこれから先の経営を進めていくのは難しくなるでしょう。

リスキリングを機能させるにはこれから必要になる仕事の明確化、学んだ人が挑戦できる配置や異動、小さくても新しい役割を試せる越境機会、そしてそれを評価する仕組みまで含めて設計する必要があります。それは本人だけ、人事だけではなく、事業・現場・上司を巻き込んだ取り組みにしていくことが求められると思います。

「残らせる」より、「ここで成長できる」と思える組織へ

人事が抱く「育てるほど去るのではないか」という不安の正体は、学びそのものへの不信ではなく、自社の中に学びを受け止める構造が十分にないかもしれない、という感覚に近いのかもしれません。

だからこそ、本当に向き合うべきなのは、社員の市場価値が高まることを恐れることではなく、その価値が社内でも発揮される仕事や機会をどうつくるかです。市場価値と社内価値は、本来対立するものではありません。市場で通用する力を持つ人が、自社でも価値を発揮できる状態をどう設計するかが、人事に問われているのではないでしょうか。

トヨタの豊田章男氏が言っていた「皆さんは自分のために自分を磨き続けてください。トヨタの看板が無くても、外で勝負できるプロを目指してください。私たちマネジメントは、プロになり、どこでも戦える実力をつけた皆さんに、それでもトヨタで働きたいと心から思ってもらえる環境をつくり上げていくために努力します。」という気概が必要なのかもしれません。

厳しい言い方になるかもしれませんが、優秀な人材をつなぎとめる方法は「学ばせないこと」ではありません。学んだ人に、社内で新しい景色を見せられることです。リスキリングとは、社員に転職チケットを渡すことではなく、変化する事業の中で「この会社でもまだ成長できるし、価値を発揮できる」と再接続していく営みです。そう捉えると、人事が持つべき問いも、「辞めないようにどう抑えるか」ではなく、「学びが活きる仕事をどう生み出すか」に変わってくるのではないでしょうか。

終わりに

吉田さん、今回も本質を突くお話をありがとうございました。

「優秀な人が去るのは、学んだからではなく、学んだ力を社内で使えないからだ」という言葉に、一番の衝撃を受けました。私は最初の疑問として「スキルの向上が離職の引き金になってしまうのではないか」と思い込んでいましたが、まずその前提が違っていたのだと気づかされました。
大切なのは、学んだあとの「出口」として、その力を活かせる場や役割をどう整えるかという点なのですね。

第2回のエンゲージメントの時もそうでしたが、数値や施策を単なる手段として捉えるのではなく、「この会社で働き続けたい」「ここで新しいスキルを活かしたい」と思ってもらえるような環境をつくること。その本質的な向き合い方が何より大事なのだと感じました。

実は、私も社長に「あなたの市場価値を上げます」と言っていただいたことがあります。そこには、社内での成長はもちろんですが、成長したあとでも「なお、この会社で働きたい」と思える場所にしたいという、経営としての強い意志があったのだと改めて気づきました。

私自身もメディアを運営するうえで、単なるスキルの流行を追いかけるのではなく、そのスキルが組織でどう活き、個人のキャリアにどう影響するのかという「ゴール」の部分について、これから皆さんと考えていきたいと思います。

「人事キーワードの理想と現実」、第3回はいかがでしたでしょうか。
リスキリングに対する「離職への懸念」が、この記事を通して「学びが活きる組織づくりをどう行うか」というワクワクする問いへと見つめ直すきっかけになれば幸いです。

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