【再定義】社員は「所有物」ではなく「投資家」である
INDEX
1.人的資本経営ブームの終焉か、それとも本番の始まりか
最近、「人的資本経営」という言葉を以前ほど目にしなくなったと感じている方も多いのではないでしょうか。実際にGoogleトレンドで「人的資本経営」の検索動向を確認すると、2023年3月の人的資本情報開示義務化以降も高い関心を維持していたものの、2024年後半をピークに緩やかな減少傾向にあることが分かります(図1)。
【図1】Google トレンドに見る「人的資本経営」の検索動向(日本、過去5年間)

検索トレンドの低下は、人的資本経営の重要性が低下したことを意味するわけではありません。むしろ、制度対応や情報開示といった「導入フェーズ」が一巡し、本質的な実践が問われる段階に入ったと捉えるべきではないでしょうか。
実際、多くの企業では人的資本経営が「開示対応」や「人事施策の一つ」として理解されているように感じます。「うちは上場企業ではないから関係ない」「開示対応も終わったし、一通りやるべきことはやった」「以前から社員を大切にしてきたので、特に新しい話ではない」。こうした声を耳にすることも少なくありません。しかし私は、人的資本経営とは本来、そのようなものではないと考えています。
人的資本経営は、決して開示対応や人事施策の流行ではありません。企業の競争力そのものに関わる経営課題です。一般的には「従業員の能力や知識を企業の資本として捉え、その価値を最大限に引き出すことで企業価値向上を目指す経営」と説明されます。しかし私は、この定義にはまだ続きがあると考えています。
それは、「その人的資本の持ち主は誰なのか」という問いです。人的資本経営の本質は、この問いから始まるのではないでしょうか。
2.「社員は資産」という発想からの脱却
私たちは長い間、「社員は会社の財産である」という考え方に慣れ親しんできました。また、「人材」を「人財」と表現する企業も少なくありません。しかし、漢字を変えただけで本質が変わるわけではありません。景気が悪くなれば人件費は削減対象となり、組織運営においては依然として社員を管理・統制の対象として扱う。その前提が変わらなければ、人的資本経営は理念やスローガンの域を超えないでしょう。
現代の知識社会において、社員は単なる労働力ではありません。一人ひとりが、自らの時間、経験、専門性、知識、情熱という希少な資本を持っています。そして、その資本をどの企業に投下するかを自ら選択しています。もちろん社員は法律上の株主ではありません。しかし私は、「人的資本を企業に投下している存在」という意味において、社員を投資家として捉えるべきだと考えています。私はこのような存在を「人的資本家」と呼びたいと思います。
この視点に立つと、企業の見え方は大きく変わります。企業は株主から財務資本を預かっています。同時に社員から人的資本も預かっています。つまり企業とは、株主資本家と人的資本家という二種類の資本家から資本を預かり、それを活用して価値を創出するプラットフォームなのです。この関係を整理したものが【表1】です。
【表1】人的資本主義における二資本家モデル
| 項目 | 株主資本家 | 人的資本家 |
| 投下する資本 | お金 | 時間・知識・経験・専門性 |
| リターン | 配当/株価上昇 | 給与・賞与/ FMV(市場価値)向上 |
| 離脱方法 | 株式売却 | 転職 |
| 関係性を測る指標 | 株価・IR評価 | 従業員エンゲージメント |
表1から分かるように、企業は株主資本家だけではなく、人的資本家からも資本を預かっています。そして、株主が配当や株価上昇を期待するように、人的資本家である社員もまた、給与や人的資本価値の向上というリターンを期待しています。こう考えると、人的資本経営とは単なる人事施策ではありません。二種類の資本家から選ばれ続けるための経営そのものだと言えるのです。
そして、人的資本家から選ばれ続けるためには、企業は労働市場において自社ならではの価値を示さなければなりません。
3.人的資本家に選ばれるための競争戦略
人的資本家という視点に立つと、企業は労働市場という競争市場の中に存在していることが見えてきます。ここで参考になるのが、マイケル・ポーターの競争戦略です。
企業が競争優位を築く方法は、大きく「コストリーダーシップ戦略」と「差別化戦略」に分けられます。この考え方は人事戦略にも応用できるのではないでしょうか。
人事におけるコストリーダーシップ戦略とは、人件費を抑えることを意味するものではありません。むしろ、潤沢な資本力を背景に、高い給与や魅力的な福利厚生、充実した労働環境などへの投資を通じて人的資本家を惹きつける戦略です。いわば「圧倒的な資源投入による優位性の確保」と言い換えることもできるでしょう。しかし、この戦略を採れる企業は限られています。すべての企業が処遇競争で勝てるわけではありません。
だからこそ、多くの企業は差別化によって選ばれる必要があります。どのような挑戦機会を提供できるのか。どのような成長環境を提供できるのか。どのような経験を積むことができるのか。人的資本家である社員は、自らの資本価値を高めてくれる企業を選びます。企業は、「この会社だからこそ得られる価値」を提示しなければならないのです。
私は、人的資本経営の本質は、この差別化戦略にあると考えています。資金力による競争には限界があります。しかし、社員のFMV向上にどこまで本気で向き合えるか、自社ならではの成長機会や挑戦の場をどれだけ提供できるかは、企業ごとの意思と工夫によって大きな差が生まれます。人的資本家から選ばれる企業になるためには、自社独自の価値を磨き続けることが求められるのです。ただ、逆の見方をすると、給与や処遇を大きく上げることが難しくても、独自の成長機会や挑戦の場を提供でき、それを人的資本家に魅力的に伝えることができさえすれば、選ばれる可能性が十分にある、労働市場において十分勝負になる、と言えるのです。
4.人的資本のリターンとは何か ― FMVという視点
前章では、人事における差別化戦略の重要性について述べました。では、人的資本家は企業に対して何を期待しているのでしょうか。その答えを考える上で重要なのが、人的資本のリターンという考え方です。
資本にはリターンが必要です。株主資本家へのリターンには、配当というインカムゲインと、株価上昇というキャピタルゲインがあります。人的資本家へのリターンも本質的には同じ構造です。給与や賞与は人的資本のレンタル料であり、インカムゲインに相当します。
しかし人的資本経営の本質はそこではありません。企業が本当に向き合うべきは、人的資本のキャピタルゲイン、すなわち人的資本価値そのものの向上です。
私はこれをFMV(Fair Market Value:市場価値)という概念で捉えています。転職市場で提示される年収が上がること、社内外を問わずより大きな役割を任されること、希少な専門性を獲得すること、他社から声がかかること、あるいはセミナーや講演への登壇依頼を受けること。これらはすべて、その人の人的資本価値が向上したことを意味しています。
人的資本経営とは、社員のFMVを高める経営だと言い換えることもできます。古くから「仕事の報酬は仕事である」という言葉がありますが、私はこの言葉を「市場価値を高める経験こそが最大の報酬である」と解釈しています。
企業が人的資本家に提供すべき最大のリターンは、給与だけではありません。その人の人的資本価値そのものを高める経験なのです。そして企業にとって重要なのは、社員のFMVを高めることだけではありません。その結果として、社員が「この会社に人的資本を投下し続けたい」と感じているかどうかです。私は、その状態を測る代表的な指標がエンゲージメントであると考えています。
5.対等なパートナーシップが組織を変える
この考え方は企業だけではなく、社員側にも変化を求めます。投資家である以上、自らの人的資本価値を高める責任は本人にもあります。企業が成長機会を提供し、個人が主体的に挑戦する。そこには主従関係ではなく、対等なパートナーシップがあります。
私は、人的資本経営の本質は、この「対等な関係性」にあると考えています。企業は社員を管理する主体であり、社員は管理される対象であるという発想は、高度成長期の大量雇用を前提とした時代には機能したかもしれません。しかし、人的資本家が自ら投資先を選ぶ時代においては、その考え方そのものを見直す必要があります。
この視点に立つと、エンゲージメントサーベイの意味も大きく変わります。私はこれまで、多くの企業でエンゲージメントサーベイが「経営から指示されたから実施するもの」あるいは「人的資本開示への対応として実施するもの」として扱われている場面を見てきました。しかし、それはエンゲージメントの本質からすると極めて限定的な理解です。
企業が株主との関係性を重視し、IR活動を通じて対話を続けるように、人的資本家である社員との関係性についても継続的に確認しなければなりません。エンゲージメントサーベイとは、単なる人事施策でもアンケートでもありません。社員が現在どの程度企業との関係性に価値を感じているのか、自社というプラットフォームに人的資本を投下し続けたいと思っているのかを測定するための重要な経営指標なのです。
だからこそ、本来問われるべきなのはサーベイを実施したかどうかではありません。その結果を経営が真摯に受け止め、社員との関係性を改善し、人的資本家から選ばれ続ける企業になれているかどうかです。私は、エンゲージメントは人事部門のKPIではなく、経営そのもののKPIとして捉えるべきだと考えています。
そして、この関係性を日々の現場で支えるのがマネジメントです。リーダーは部下を管理対象として見るのではなく、「人的資本を預けてくれている共同投資家」として向き合う必要があります。日々の1on1や対話を通じて、「どのような市場価値を高めたいのか」「どのようなキャリアを実現したいのか」を共に考える。その積み重ねこそが、人的資本経営の実践ではないでしょうか。
6.おわりに
人的資本経営という言葉のブームは落ち着いたかもしれません。しかし、それは終わりではなく、本質的な変革の始まりです。
人的資本家たちは、自らのFMVを最も高めてくれる企業を選び続けます。そして、その企業に人的資本を投下し続けたいと思うかどうかは、エンゲージメントという形で表れます。
企業はエンゲージメントを単なる人事指標としてではなく、人的資本家との関係性を示す経営指標として捉えなければなりません。
私は、人的資本経営の究極的な目的は、人を会社に縛り付けることではないと考えています。社員一人ひとりが人的資本家として自らの価値を高め、その成長が企業価値向上につながる。そして企業価値の向上が、さらに魅力的な成長機会を創出し、社員のFMV向上につながる。この価値循環を生み出すことこそが人的資本経営の本質です。
人的資本経営とは、一過性の流行でも開示対応でもありません。企業と社員が共に成長し続けるための経営です。そして私は、企業と個人の成長が相互に循環し続ける世界を「人的資本主義」と呼びたいと思っています。
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